昭和42年01月19日 夜の御理解



 只今、御祈念前に、永瀬さんの奥さんがお届けされます。今朝からのお夢の事を感じたんですけれども、本当にあの信心の一つの目指しというか、焦点というか、もうどうしても、家族が勢を揃えた信心というか、夫婦が勢を揃えた、又、親子が信心を揃えた、心を揃えての信心でなからなければならないという事と同時に、本気での信心、本気での徳積みの信心とでも申しましょうか、を目指さなければ駄目だと。
 昨夜からの、お月次祭のお説教を頂かして頂いておりましても、本当に椛目はここに焦点を置く以外には無いのだというて頂いた。もう陰と陽とが一つになるという事。お商売をさせて頂くなら、売れる事も有り難いなら、又、それが返品になって返る事もご都合だという事をですね、判らして貰うて。成る程、もう結構ですよと云う様な心がけ、これは、商売だけの事じゃありません、もう一事が万事にそうだと。
 生きる事が有り難いなら、死ぬる事も又、神様のご都合だと。降る事もなら、照る事もと云う様にです。ここに焦点をおいていく以外にはないと。桂先生始め、歴代、私どもの手続きであるところの先生の信心に、教祖の神様、御信心が伝わって。そして、椛目にこうやっておかげを頂いておるが、まあ、時も時なら、私どもぐらいな者のところに、その信心の流れの、しかも丁度、花が咲く時期に。
 私のところへ流れて来ておるといった様な感じ。自分の信心が出来ておるから、椛目に沢山の人が集まって来るのでもなからなければ、助かるのでもない。矢張りそういう巡り合せになっておるのだと。御造営なんかは、その云うならば、花の咲いておる様なものだと。だからそこんところのところを、昨日の御理解の中に、只、永ーく信心しておるだけではつまらん、梅の実だけじゃつまらん、もう熟したらつまらん。
 熟する前にその梅が、紫蘇となじまなければ。その梅干的なおかげにならないという御理解でしたですね。もう紫蘇となじんで初めて、それがいつまでも置いても悪くならないという、その梅干の徳というものになるのだと。紫蘇と云う事は勿論、これをもじって云うと、いわば死相ね、死相が現れたと云うでしょう。例えば、今の椛目の本当に有り難い事の続いておるなら、又悲しい事も続いておるといった様なです。
 例えば、正月四日から10日間あまりの間に3つもの、その椛目の云うなら、重要なご信者さん方が亡くなられたといった様な事なんかでもです。だから、それを有り難く頂き、これも有り難く頂いて初めて、そこに梅と紫蘇とがなじむのだと。そこを有り難く頂いてこそ、梅干の徳というものは受けられるんだと言った様な御理解を頂いたんですね。そういうおかげを頂いたその翌日の今朝です。
その永瀬さんの奥さんが頂いておられるのが、お父さんは、俺ゃもうどうでもこうでも、酒屋商売をせにゃいけん、酒造りするて云うて、その酒造りに一生懸命大わらわの所頂かれた。そんなら、私は、漬物なっとん漬け様ちてから、漬物を漬けておるところを、お夢を頂いた。ここんところを私は、あの夫婦が勢を揃えて信心をさして頂くと。勿論、酒、酒と云う事は有り難き、勿体無き、恐れ多きが成就する事だろうとこう。
 その為には、あの酒を造らせて頂く一つの過程といった様なものがです、もうこれは、酒造りの時にはもう、一時でも、油断も隙もあったもんじゃ有りませんです。これは、私は酒屋をしておったから良く知っておりますけどもね。もうそれこそ、もう一時だって油断は出来ません。もう出来ておる元が、どんどん、どんどん泡がふいてですね、吹きこぼれてしまうんです。
 だからその、それをそれに対する手当が、ずつとかかってせらなければ、その良い酒は出来けませんもんね。いわゆる、有り難き、勿体無きのお徳を頂く為には、やはり、そこんところの、現在、永瀬さんがなさっておられます、もう本当にどんな霜の朝であろうが、どんなに、この頃からの大雪の朝であろうが、さあ、自動車でもエンジンが凍っておりゃ、もうそれこそ自転車ででも、矢張り、朝五時前にゃきちんと、ここに出て来ておられますですもんね。
 そういういわば、信心です。同時にまあ、あんたが酒造るなら、私がお漬物なっとん漬けさして頂こうという様なですね、それが酢いもならん様に、臭うならん様に、矢張り漬物の出来上がる一つの過程というものを思うたらいいのです。それこそまあ、100本漬けを漬けましても、山汐、高菜なんかを漬けましても、やっぱりあの一つの過程というものがあるですね。
 あれを陰干しにしたり、吊り下げられ、ぶら下げられたり、暗い桶の中に入れられたり、それこそ、塩をじゃりじゃりする様に入れられたり、上から重い重しを云わば、かけられたり。そうしながら、云わばあの大根とか、お野菜なんかが、いついつまでおいても、悪くならない。云わば味の良いお漬物が出来上がって行く様なです、その過程を思うたら、信心がそう云うものであるという事を一つ判らして貰わないかん。
 そこを貫かなければいけん。今日もそこに、佐田さん達が夫婦でお参りしておられますが、今日昼も奥さん参って見えられた。それで、昨日、お月次祭を夫婦でおかげ頂いてから、もう本当にあすこはそれこそ、私があの、御信心一家って云っただけでなくて、あんた方、御造営一家だという風に云うんですね。もう子供達までが、子供達がこんなに小さい。まだあの啓介君が4つでしょうかしら。
 、この頃からあの日田の里の方へ帰っておられました。それで帰って来たげなら、啓介さんがもう、わんわん言うて泣きござるそうですもん。そげんなし泣きよるね、ち、言うたところが、姉ちゃん達にゃお年玉がその、沢山あったらしいんですよね。ところが、僕にはなかった、だからその御造営費が貯まらんち言うて泣きよるとじゃったげな。けども本当に、私は、どうして、こんなに小さい子供達にっさい、そう云う教えた様な事を云わせなさる私は元があると思うんですよ。
 それこそ、もこの人は神様のおかげで、この世に出て来ておるとといった様なものが、矢張りいつの間にか、子供の心の中に染みとるのじゃなかろうか。家はもう椛目通いがなかったら、家は金光様がなかったら、もう自分の存在なかと言った、そんな難しい事でもないでしょうけれどもです。そう云う様なものがなんとはなしに、染みこんどるのじゃないでしょうか。
 私が小さい時に、親達が、ほおー、大きくなられたですねて言うて、この人ばっかりは、神様のおかげですたい、もう神様がなかなら、この人はもう、いつの昔に死んどるとですばってん、と云うてその聞きよる事がです。いつの間にか、その私の心の中に染み込んでおる。そう云う様なものがです、矢張りある。ですから、あんた方は、まあ云うなら御造営一家だと、私が云う様にですね、親子夫婦のものが、勢を揃えての信心がでけておられるんです。
 私は、その事を先日からも、あのテープを買って行ってま家族で頂かれるらしいんですね。それがまるきり、もう実に神ながらなその御理解をですね、わざわざ、丁度久保山先生がまだご在生中の頃、買っておいでられておった。それがもう本当に、今の佐田家が頂かなければならないところがですね。こうテープの御理解の中に聞かして頂けるという事がま、有り難いと云う、その後にでした。
 夕べも、本当にあの、今日の月次祭の御理解を頂きながら、夫婦で自動車の中で信心話さして頂きながら、お父さんがこう云う事を申します、私は、それこそもうほんなこて、膝を叩いて、そうたい、そこばいと、」こう云いたい様な感じで、聞かせて頂いた様な事があるんですよ。
 今日、私が申します、いや、永瀬さんが頂いてござる、そう云う様な信心とは、どう云う様な心がけにならなければ出来ないかという事がです。みんなが徳は受けたい。けれども、なかなか受けられないのは、昨日頂いた様な御理解を焦点にしてお互い信心さして貰わなければならんのですけど、そういう信心が、どういう心がけになったら出来るかと。という事を、佐田のお父さんの方が云われるんです
 。いつも先生が仰有ろうが、信心生活と云う事。信心の中に生活がなからなければいけないという事を、よくよく考えると、生活の中に信心があると同じ事なんだから、云うなら、椛目お参りも、そのお商売の、云うなら一部だという事です。私はそれを聞いてから、もうそこだと思うです。
 信心がですね、忙しいから、信心がいわば仕事が忙しい時に、こう離れておるような信心では、今日、私が申します、永瀬さんが頂いておられる、いわば昨夜から頂いておる様な信心の、やはり徳が受けられないと思うです。信心生活とはそれなんだ。久留米からこうして、場合には日に2回も3回も参って見える。夫婦が揃うて参って見える。それがです、そういう考え方、商売の中にです。
 商売の中に信心が有り、信心の中に商売があるのですけれどもです。だからその考え方の中にです、椛目参りも、やはり商売、云うならば、元を仕入れげ行く様なものなんだと。ですから、椛目を抜きにしては、お商売は成り立たないと云う事になるんです。忙しいからお参りが出来んという時にはです、もう信心と仕事が別々になっとるでしょう。そりゃ理屈のつけ方はいろいろに云えます。
 一生懸命、家で信心して商売さして貰いよる、これも信心でするから、参ったっと同じ事だと云う様な考え方をする人がありますですね。これはしかし、非常に危険な、云うならば、考え方だと思いますね。なぜかと例えば、百姓なら百姓をする人がです、百姓をさして頂きながら、それを信心でするから、参ったっと同じ事だと云う様な考え方は、そこが人間の欲です。間違います。
 けれどもです、その椛目参りも、百姓の中の一部にあると、百姓の方が思われたらです、それは今もなからなければ根付も無い、椛目に行かなければ、杜氏は始まらんのだもの。そういう私は、云うなら一途な思い方。そういう思い方の中からしか、私は本当に、いわば、酒造りは出来ない。いわば本当の漬物漬けは出来ないと。漬けようごたっちゃ、臭うなる、酢ゆうなってしまう。
 酒ば造りかけとって油断しとったら、もうそれこそ呑まれん事になってしまう。本当にあの、なんとも云えん良い香りのする、お神酒をお酒を造ろうと思えばです。一時だって油断は出来ん。それが例えば、佐田さんが昨夜、夫婦で話されたと云う。いわゆる信心生活とは、先ず、椛目参りからだと。その椛目参りその事もです、椛目に参るという、自分のお商売の一部なんだと、ここなしには行けないのだと。
 例えば、会社に勤めておる人ならばです。椛目を通って行かなければ、その会社には行けないのだという思い方なんだ。それを今日はもう早道してから、椛目は抜きにして行こうて云う様な事は、ちょっと可笑しいじゃないかと云った様な事を、主人が話しますとこう言う。
 でそうだとそこだとだからそれが本当に、それが判っておってもそれが自分のものになる為には矢張り修行がいるでしょう。それが完璧と云われるくらいに出来るまでには、なかなかでございましょうけれども。そういう思い方の中からです。永瀬さんが今朝から頂いておられるという、酒造りも漬物造りも出来るのじゃなかろうかと私は思うですね。
   どうぞ。